2009年01月

2009年01月27日

ついに図面上に現れた計画  その6

<コミュニティの名称>
以前には漠然と「ザ・下宿」などどうかと思っていたが、こうして図面として姿が見えてきた今「耕雲舎」「耕雲館」「耕雲寮」等、なぜか「耕雲」。そういう名称はどうかと思うようになった。文字通り雲を耕す「耕雲」。雲を耕すことを共に学びあう場所としてそういう名称はどうか。とりあえず「耕雲寮」と名付けた。


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2009年01月26日

ついに図面上に現れた計画  その5

<コミュニティの建設場所>
基本的には、平屋建てということもありなるべく広い敷地が好ましい、必然、地方都市近郊の山村が想像される。全館インターネット接続できるよう完備されているので、世界の情報とは常に対面している。

<コミュニティの経営>
A) オーナーが土地取得費及び建設費全額出資の場合。
コミュニティは大きな一軒家として想定され、そこにある8室を入居者が使用権を買うことにより入居者となる。月々の家賃と食事費及び世話人費が主なる収入となる。
B)ファンドでの土地取得費及び建設費全額出資の場合。
  オーナーは仕事場付きの住まいの使用権を購入することになる。のち月々の家賃と多少の世話人費を支払う。
  入居者は同じく個室の使用権を購入し、のち月々の部屋代と食事人及び世話人費を支払う。入居者が将来心身が弱り、個室空間での生活が心的にもきつくなってきた場合、個室の使用権を売り、みんなの溜まり場である大リビングの傍に付随してある奥座敷を使用することができる。奥座敷にはシャワートイレも完備し、親族の人たちも泊まることもできる。
C)地域との交流を配慮し、コミュニティの大リビング、食堂を地域の託老所や託児所として地域に開放することもまた楽しい。当然ヘルパーさんの力も借りなければならない。



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2009年01月25日

ついに図面上に現れた計画  その4

B、コミュニティの構成者

1) 北の塔に住む、オーナー夫妻。生涯かけて自分の仕事を深め、探究している人。例えば画家とか音楽家など。ともかくこの人物でこのコミュニティの水準が決まる重要人物。世話人の相談相手として、コミュニティ全体を見守る人。通常は一階の仕事場で自分の仕事に打ち込む。または学習塾の経営者も考えられる、一階の仕事場を教室として塾を運営する、コミュニティに中学生や高校生が訪れるのも又、楽しい。
2) 南の塔に住む、世話人夫婦。炊事、洗濯など家事一般得意な人。当分の間、コミュニティの食事の世話が主なる仕事。夫は外部にサラリーマンなどとして仕事に出かけている。やがて入居者の高齢化が進み、洗濯や掃除の仕事など派生してきたときは、パートの叔母さんなどの手をかりて入居者の世話に励む。
3) 8人の入居者。全員、単身者。70代2人、60代4人、50代2人計8人。今まで住んでいた家やマンションを売り払い、コミュニティの個室使用権を買って入居者となる。


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2009年01月23日

ついに図面上に現れた計画  その3

A、建築概要

下宿者の人数を8人と設定した。この人数はかの哲学者カントが食事に招く客数を9人を超えないことにしていたことに倣った。個個の顔が明瞭に判り、お互い気配りできる、ほどよい人数だと私には思えた。

各個室の広さは約22平米。内、居室は約7畳。トイレ、シャワー、洗面、他、収納は2間と少々。木造平屋建て。居室からの障子戸を開ければ季節の花々が内庭に見える。

建物は基本的には木造平屋建てであるが、その内に、鉄筋コンクリート造りの、二本の塔が屹立している。この二本の塔を、この場所を支える垂直軸として設定した。

一本の塔(北の塔)はこの建物のオーナーの住むところ。その二階は約50平米。内、約8帖の寝室と約16帖のリビング。他簡易キッチン及びシャワートイレ。一階には35平米のオーナーの仕事部屋。

もう片方の塔(南の塔)はこの施設の世話人の住むところ。二階の広さは同じく約50平米。先の塔の居室と同じ構成。
一階には皆の溜まり場になるであろうところの、広めの食事場と居間。床の間付きの奥座敷。台所、洗濯室、サービススペース、ほか。実質みんなの生活を支える場所として設定されてある。
廊下から個室、トイレに至るまで全館車椅子使用可能に設計されてある。


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2009年01月22日

ついに図面上に現れた計画  その2

確かに高齢者たちの施設(老建施設、老人病棟、老人ホーム、グループホーム)については。考えれば考えるほど困難な問題が山積している(政治上、経済上、私たちの老いに対する認識も含め)。ともかく手さぐりしながらも、何とかできないかと思いつづけて来たのだが・・・・。

入居者の身になって考えてみた。そもそも老いというものは突如としてやってくるものではない。その当たり前のことに、当人たちは結構無頓着に生きてきている。そして一旦、上記の施設に入れば、後はベルトコンベア式にあの世に送られてしまう。これがこの国の現況なのだ。子供すらあてにはできない。ではどうあればいいのか。

私は高齢者たちの「下宿」なるものがあってもいいのではないかと考えた。若い時の下宿は、次の社会に出るための「溜め場所」として、そこにおいて、若者は悩み苦しみ、思考し、恋をし、未来を思う、そういう溜め場所で力をつけ、社会人として羽ばたき巣立っていく。

高齢者たちにも、次の世に元気に巣立っていく、溜め場所としての下宿があってもいいのではないか。善く生きるとはまたよく死ぬことと。そんな場所を創れないかと長い間考えてきた。







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2009年01月21日

ついに図面上に現れた計画  その1 耕雲寮 建設計画

時には電車内で、時には朝の目覚め時に、又は日々の散歩時に。メモを取ることもままあったが、主に頭の中でスケッチを繰り返していて、結論を先に先に延ばし、決して製図板には向かわなかった。それほどに重いテーマとして時間をかけ温めてきた計画が、ようよう図面上に現れた。1/200のスケールだけれど。

今年に入って、一気に設計に取り掛かる気持ちにさせたのは、一月の四日に放送された、ETV特集「吉本隆明語る」をみて、かの人をもってしても老いはまぬがれえぬことを、目の前にして、俄然、無常ということが改めて私に自覚せしめ、いつまでも結論を先に延ばしてはおけないと、その日から製図板に向かう日々となった。

そのテーマとは、世間的にはグループホームと呼称されている施設のことであるが、私はあえてグループホームとは言わない。なぜなら、それらの施設については、何件か見学したり、図面を見たりしてきたが、いまだ一つとして私を納得させるものがなかった。その大きな原因の一つとして、老いというものを時間軸上の線形として主にとらえ、建築もそのように線形構成されていることに主なる原因があるのではと私には思われた。そこでは入居者はますます老いを加速し、やがては病院をたらい回しにされ、遂には死に至る。

そんな現状を何とかできないものだろうか、と長い間私は考えてきた。

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2009年01月04日

日比谷の派遣村へ行ってきた。

JR有楽町駅より日比谷公園へ向かう。日比谷公園など何年振りだろう、十年あるいは二十年ぐらいだろうかなどと考えながら歩き始める。見通す道路の先遠くに日比谷公園の森らしきものが見えた。何やらすごい人出と、のぼり旗らしきものの群れも見える。これは、派遣村が大変なことになっているのではないかと急ぎ足で日比谷大通りまで来てみれば、それは箱根駅伝の見物人たちの群れとどこかの大学ののぼり旗の群れであった。ちょうど駅伝の先頭走者がくるらしく、交差点には手信号の交通警察官数人であわただしく車の流れをさばいていて、わたしは道路向こうに渡れないまま、結局最終走者まで見る羽目になった。そこで始めて気がついたのだが日比谷公園と道路一つはさんで右側に、かのやんごとき方のすむ無の森があることに気づいた。で、私の背後には日比谷警察署なるビルが、ある、こんなの昔からあったのだろうか等改めてまわりをみれば、ずいぶんと高層建築が立ち並びやはり隔世の感を覚える。

箱根駅伝の自転車隊が通過し終えやっと日比谷公園に入ることができた。が、派遣村らしきものが見当たらない、公園内は普段もそうだろうという人たちがあちこちにいるだけで派遣村が見当たらない。で、やっとやんごとなき方の住む無の場所からはもっとも遠く離れた公園の端にようやく派遣村があった。

何やら円陣を組んでいる人たちがいる、円の中には主催者の一人であるニュースなどで見たことのある、湯浅さんがマイクでいろいろ事務手続きなどの説明をしているところだった。さらに奥へと向かう、炊き出しの準備をしている人達が懸命に作業に励んでいる。奥には寝床らしきテントもある。派遣の人たちは結構みんな元気で働く意欲十分に見えた。

少額だけれど寄付金を箱にいれ、四個で百円の林檎を、二個だけででいいと百円で買う。その二個のリンゴも、先にいた係りの若者に、誰かにあげてくださいと手渡す。そこで想像、その二個のリンゴは元の売り場に戻れば、また四個百円で売ることができる。そして次から次そのようにリンゴが循環すれば、四個で百円のリンゴが、黄金のリンゴいなる、と。

派遣の人たちは不安はあるだろうが、けっして意気消沈などしていなかったし、健康上弱っている人も見えなかったし、ともかく思ったよりみなさん元気で安心にて帰路についた。








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2009年01月02日

派遣切りと派遣村

昨年のサブプライムに発した世界経済の混乱は、今年も引き続き我が国の経済界を撹乱し、多くの生活者に混乱を持ち込み、分けても「派遣切り」などと聞くに寒々くなる言葉が当たり前の如く日々新聞紙上見るにつけ、今年もどうなる事やらと暗い気持ちになる。

そんな中、日比谷公園内に「派遣村」なる場を設営した人たちがいた。どういう人達が運営しているのか私にはよくわからないけれど、何か希望の光を感じ、励まされる自分がいた。片方に「切る」奴がいれば、村人が連帯して守りあう。アメリカにオバマ新大統領が、この国に「派遣村」の登場。今年の希望の光とならんことを!

明日にでも日比谷公園へ行ってくる。

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